科学という方法論

最近、巷では小保方さんがやれ世紀の発見だ、やれ捏造だったなどといろいろ騒がしいのだが、正直、この騒ぎ方はなんか納得がいかない。

もともと科学というものは、未知のものを仮定と実験や観察をもとに体系づけて既知のものとする、その既知としたものを基準としてさらに新しい未知のものを既知として体系を整え世界を理解する範囲を広げていく、といった方法論がその本質であると私は考えている。そしてこの方法論の部分にのみ注目した場合、それによってもたらされる結果それ自体は単なる技術であって、科学の本質ではないといえる。

そりゃあ、過去に定説となっていた内容が、何十年も何百年もあとにひっくり返されることはままあるし、そうなったらそれ以降の研究の成果についてもすべて見直しとなる。昨日まで事実と思われていたことが、実はすべて間違いでした、なんて当たり前に発生する。だから科学は万能ではない、信用ならない、という人もいる。しかしながら常に内容を見直し検証して自己修正を行い続ける仕組みが科学という方法論には本質的に備わっているので、私はたとえ間違った結果を一時的に広めることがあろうとも、それでも科学は万能な仕組みだと私は思っている。

さて大学で、特に理系で多少なりとも研究分野をかじった人ならわかると思うが、基本的に論文の中身は間違いだらけだ。学部学生ですら間違いを指摘できるような情けない論文も多い。論文として発表された段階ではまだそれは事実でも確定情報でもない。単に「私はこう思った」という表明にすぎない。これらの論文を世界中の学者およびその卵たちは読んで、追試して、検証して、ちょっとでも変なところがあれば指摘して、これを発表するとこれまた自分の手柄にもなるわけだ。そうして論文として発表してから後にも何重もの厳しい評価にさらされ、修正される。
今回の小保方さんの件については、元の論文の内容がセンセーショナルだっただけに、評価も厳しい。そりゃ元論文にもいろいろ問題が多かったのだろう。だが、マスコミの報道はその論文の内容ではなく、小保方さんのキャラクターに焦点をあてて持ち上げ、今度は逆にキャラクターを落としているようにしか見えない。
小保方さんがもしも人格的な破綻者だったとしても、そんなことは科学には関係ない。論文で発表された内容は多くの人によって追試され、検証され、正しい部分と間違った部分が確認され、さらに別の人間によって拡張される、ただそれだけのこと。
コピペについては単にかっこ悪い。ちゃんと引用としての要件を満たしているなら問題なし。
論文の中身がどこまで正しいか、どこまで間違っているかは、現在精査中。
本人の経歴だのキャラだのは正直、どうでもいい。
ただ持ち上げた後で論文が間違いでした、となった時に一斉に捏造だ!と確たる証拠もなく騒ぐのはどうかね。意図的な改竄だったかどうかでもかなりニュアンスが変わるだろうに。しかもその批判の方向が科学的な検証結果ではなく人格攻撃ときたもんだ。そんなのかっこ悪いよ。