未来と大人

僕らの21世紀は透明なチューブがビルの間を縫って走り、みんな銀色の服を着て、エアカーが空を飛ぶはずだったのに。人間そっくりのロボットが開発されて、街を歩き回っているはずだったのに・・・。

日々放射能が降り注ぐ21世紀など誰が望んだことだろう。現実は蒸気でけぶっていない、サイボーグが歩いてもいない、頽廃的な魅力が一切無いサイバーパンクの世界だったとは。

3月12日、自分は刻一刻と悪化する福島原発のニュース情報の断片を聞きながら仕事をしていた。長びいた冬が終わり春の兆しが見えていた。こんなに空が青く澄んでいるのに、その空から舞い降りてくるものを考えると気が沈んだ。いつかは起こるのではと漠然としていた不安が現実に形になった。

自分は、中学生の頃から一貫して原発には反対だった。処理方法の無い核廃棄物を未来永劫封じ込めるなんて無理だと思ったからだ。だが、その代わりとなる別のエネルギー源が無い(経済的な理由も含む)以上は、即原発を停止しろなんつーことは言えないことも判っていた。ましてや首相が個人的な感情で停止命令を出すなんてものではないだろう。

だが原発に反対といってもそのための活動は何もしてこなかった。デモするとか署名活動するとかじゃない。原発がいらない社会とは、その分のエネルギーを使わない社会だ。個人レベルでも省エネ活動はできるのに、してこなかった。だから今回の原発事故は、それから作られる電気を利用することで容認してきた自分にも責任がある。決して他人のせいではないのだ。たまたま東電圏内に在住していないだけでは責任は免れない。日本で生きている限りは同罪だ。

そうして、放射能降り注ぐ夢敗れた未来を僕らは生きて行かねばならない。
おそらく日本に住み続けると癌の発生率がやや高まり、その分癌保険料の掛け金が高くなることだろう。目に見えない放射線に恐れをいだきながら、それでも我々は生活を営んでいかねばならない。働き、食事をし、人と出会い、笑い、泣かねばならない。それでも真っ向から放射能と向きあって生きるしかない原発周辺に住まう方のことを思うと、こんな呟きなど戯れ言なのかも知れない。

自分はともかく、子供達は不憫だ。子供たちには申し訳なく思う。彼らは、選択の余地がなく今の状況を受け入れなければならないのだから。だからこそ、せめて大人たちが責任とった姿を子供たちに見せていかねば、ね。
かっこ悪いのはごめんだ。